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加藤昇

推定知名度4.02%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

加藤 昇(かとう のぼる、1922年(大正11年)9月 - )は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中尉。(※正式な表記は加藤 曻)==来歴=====生い立ち===京都府京都市出身。父は、商船の船長をして不在がちであったため、専ら母の影響を受けて育つ。1934年(昭和9年)4月、京都市立第二商業学校に入学。同校卒業後、1939年(昭和14年)4月、立命館大学法学部に入学。1942年(昭和17年)徴兵検査甲種合格。大東亜戦争の戦況拡大に伴い、1943年(昭和18年)9月、同校を繰上げ卒業。===軍歴===1943年(昭和18年)海軍航空隊へ志願し、10月1日、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。三重海軍航空隊で基礎教程を学ぶ。1944年(昭和19年)1月、青島海軍航空隊で、偵察機の航空練習を行う。1944年(昭和19年)5月、同上課程を卒業し、海軍少尉に任官。1944年(昭和19年)8月、連合艦隊の第七艦隊に配属され、重巡洋艦「最上」の艦載機「零式水上偵察機」搭乗員として、同艦に乗艦する。1944年(昭和19年)10月、「最上」の乗組員として、レイテ沖海戦のスリガオ海峡海戦に参戦。10月24日夜、米艦隊と交戦し、敵機の空襲を受けて機関室を破損し操舵不能となりながら約8ノットの速度で漂流していたところ、パナオン島ビニト岬の南東約38海里の地点で、駆逐艦「曙」に発見され救助された。この時「最上」乗組員1200人中、生存したのは僅かに400人余りであった。生存者の救命後、航行不能となった「最上」は、駆逐艦「曙」により雷撃処分され海底に沈んだ。全滅する西村艦隊の最期を見届けた一人となる。この海戦の後、加藤は第六三四海軍航空隊に配属され、フィリピンのキャビテに転出。水上爆撃機「瑞雲」機長として、レイテ湾から北上する米艦艇群に対する攻撃作戦(対艦爆撃)に出撃し多数の戦果を挙げる。1944年(昭和19年)12月、第一航空艦隊に転籍。1945年(昭和20年)1月、大東亜戦争の戦況悪化に伴い、台湾東港飛行場に撤退。1945年(昭和20年)4月、鹿屋海軍航空隊に転籍。1945年(昭和20年)5月、海軍中尉に昇進。1945年(昭和20年)5月11日夜、彗星夜戦隊として鹿屋基地を出撃し、沖縄北飛行場の夜間攻撃を行う。天候不良や機関不良により、同時に出撃した10機のうち6機が引き返し、投弾出来たのは3機のみであったが、加藤の乗る五番機(操縦:

過去の推移