信田 作太夫(しだ さくだゆう、文政8年(1825年)- 元治2年1月14日(1865年2月9日))は、江戸時代末期の人物。周防徳山藩士。徳山七士の一人。名は徽胤、号は秋琴。父は信田十左衛門。安政元年3月(1854年)筑後柳川藩に遊学し、加藤善右衛門に槍術を学び、日ならずしてその塾頭となる。後に福山藩に聘せられて、槍術を指南する。文久2年(1862年)、遠藤貞一郎と共に、勅使・姉小路公知を護衛して江戸に行く。翌年の春に京に戻り、周旋方となる。後、選ばれて御親兵となり、禁門の変後に帰藩したが、元治元年(1864年)、保守派が政権を握ると、本城清、浅見安之丞と......
信田 作太夫(しだ さくだゆう、文政8年(1825年)- 元治2年1月14日(1865年2月9日))は、江戸時代末期の人物。周防徳山藩士。徳山七士の一人。名は徽胤、号は秋琴。父は信田十左衛門。安政元年3月(1854年)筑後柳川藩に遊学し、加藤善右衛門に槍術を学び、日ならずしてその塾頭となる。後に福山藩に聘せられて、槍術を指南する。文久2年(1862年)、遠藤貞一郎と共に、勅使・姉......