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佐久山義隆

推定知名度0.06%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

佐久山義隆(さくやまよしたか、生年不詳 - 永禄6年5月21日 (旧暦)|5月21日(1563年6月11日))は、戦国時代 (日本)|戦国時代の人物。下野国|下野の戦国大名那須氏の一族。佐久山氏当主。大田原資清の娘を妻とした。佐久山城城主。佐久山氏は那須氏初代那須資隆の次男の佐久山泰隆|泰隆を祖とする那須氏の一族。猛将として知られ、その勇猛さを大田原資清に買われ、娘婿とされた。のち資清が死去すると、資清の子の大関高増らに警戒されるようになり、永禄6年(1563年)5月21日、現在の栃木県矢板市にある境が峯にて、うずら狩りを装いおびき出されたところを、大関高増、福原資孝、大田原晴清の3兄弟の調略によって討ちとられ、佐久山氏は滅亡した。義隆の殺害は資清の遺言だったとされる。この際、義隆の妹の半学姫も殺害され、義隆の妻も出家し、2人を供養する一生を送ったことから、義隆が殺された境が峯には、義隆とともに3人を供養する地蔵が、後世、義隆の遺臣の子孫たちによって作られ置かれている。ただ、矢板市史では、編纂した郷土史研究家があえて「自然とは思えないこの地蔵には、のろいがかけられたようなかっこうに三体とも、一、二ヶ所輪切りにされているという、気味悪い石地蔵である」と記しているように、その恨みは、後世に至っても深く残されていたようである。現在は、地蔵は地元の人たちによって手厚く供養され、地蔵の他に立派な供養塔も設けられている。Category:戦国武将Category:1563年没

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