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今福友清

推定知名度0.3%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

今福 友清(いまふく ともきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。武田氏の家臣。譜代家老衆。駿河国久能城主。今福氏は甲斐源氏・奈古氏を遠祖とする一族。『甲陽軍鑑』によれば、浄閑斎は70騎を有していたという。武田氏は天文年間に信濃侵攻を本格化させるが、『高白斎記』によれば天文22年(1553年)の信濃筑摩郡侵攻において「今福石見守」が刈屋原城(長野県松本市)の城主となり、知行地を巡り信濃国衆の海野下野守と争論が発生したという。この記事が初見史料とされる。また、『高白斎記』によれば、信濃深志城主・馬場信房、平瀬城主・原虎胤が甲府参府中に、浄閑斎は横田康景と共に在番と仁科衆への監視を務めている。その後の動向は不明であるが、永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは嫡男・今福虎孝が従軍しているため、この頃に浄閑斎は隠居していると考えられている。『甲陽軍鑑』に拠れば、浄閑斎は永禄11年(1568年)の駿河侵攻により、元亀2年(1571年)には領国化された駿河・久能城主を務めており、板垣信安の後任であると考えられている。久能城は駿河支配の軍事的拠点であり、郡司(郡代)の権限を持っていたと考えられている。天正5年(1577年)3月6日には鉄山宗鈍に自身の逆修供養(生前供養)を依頼している。天正9年(1581年)、病没。法名は「月岩紹心庵主」。家督を継承した嫡男・虎孝(丹後守、善十郎友実、子に友直)は久能山城主を務め、天正10年に徳川氏の侵攻で自刃する。友久(丹波守)・昌和ら次男以下も討死し、生き残った養子・昌常(新左衛門、和泉守、長坂光堅の次男)と孫の友直は徳川氏に仕えている。

過去の推移