上田 憲定(うえだ のりさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。武蔵国松山城主。天正11年(1583年)、兄・上田長則が没し、家督を継ぐ。城下町を整備するなど領国経営に力を注いだ。天正18年(1590年)の小田原征伐では居城の松山城は家臣に任せて自身は小田原城に籠城したが、豊臣秀吉の大軍の前に松山城は落城し、さらに小田原城も開城、北条氏は没落した。その後の憲定の消息は不明であるが、同氏の系図には慶長2年(1597年)に没したと記されている。Category:戦国武将Category:武蔵国の人物Category:消息不明となった人......
上田 憲定(うえだ のりさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。武蔵国松山城主。天正11年(1583年)、兄・上田長則が没し、家督を継ぐ。城下町を整備するなど領国経営に力を注いだ。天正18年(1590年)の小田原征伐では居城の松山城は家臣に任せて自身は小田原城に籠城したが、豊臣秀吉の大軍の前に松山城は落城し、さらに小田原城も開城、北条氏は没落した。その後......