三国湊城(みくにみなとじょう)は、越前国三国湊(福井県坂井市)にあった日本の城。湊ノ城、千手寺城とも呼ばれる。三国湊に臨む経ヶ岡に建立された千手寺が、南北朝時代 (日本)|南北朝時代に城郭として使用されたもので、東西南北220メートル四方、大手は西側にあり、堀と塀を巡らせていたと見られる。太平記には「''中にも湊城とて、北陸道七箇国の勢共が終に攻落せざりたり平城也''」という記述がある。南朝方の武将である新田義貞の弟脇屋義助の家臣である畑時能が居城とし、北朝方との戦いで義貞が戦死し平野部を制圧されると、時能はこの城を出て奮戦の末、戦死した。その後、千手寺は......
三国湊城(みくにみなとじょう)は、越前国三国湊(福井県坂井市)にあった日本の城。湊ノ城、千手寺城とも呼ばれる。三国湊に臨む経ヶ岡に建立された千手寺が、南北朝時代 (日本)|南北朝時代に城郭として使用されたもので、東西南北220メートル四方、大手は西側にあり、堀と塀を巡らせていたと見られる。太平記には「''中にも湊城とて、北陸道七箇国の勢共が終に攻落せざりたり平城也''」という記述......