ヴィットーリオ・アメデーオ2世の画像画像引用元: upload.wikimedia.org

ヴィットーリオ・アメデーオ2世

推定知名度1.3%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

ヴィットーリオ・アメデーオ2世(Vittorio Amedeo II, 1666年5月14日 トリノ - 1732年10月30日 リーヴォリ)は、サヴォイア公国|サヴォイア公(在位:1675年 - 1730年)、後にシチリア王国|シチリア王(在位:1714年 - 1720年)、次いでサルデーニャ王国|サルデーニャ(ピエモンテ)王(在位:1720年 - 1730年)。カルロ・エマヌエーレ2世とサヴォイア家分家サヴォワ=ヌムール家出身のマリー・ジャンヌ・ド・サヴォワ=ヌムール|マリーア・ジョヴァンナ・バッティスタ・ディ・サヴォイアの息子。王子の頃は病弱であり、彼の健康を気遣って作られたパンがグリッシーニであった、という伝承がある。1675年に父の死により公位を継いだが、18歳で成人するまでは母マリーアが摂政を務めた。マリーアはフランス王国|フランス寄りの政策を採り、1684年にヴィットーリオ・アメデーオ2世とフランス王ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世の姪(オルレアン公フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世の娘)アンナ・マリーア・ドルレアンス|アンヌ・マリーと結婚させた。同年に親政を宣言、プロテスタント弾圧政策を進めるルイ14世に同調し、1686年にフランス国境に潜むワルドー派をスイスへ退去させた。しかし、1690年にワルドー派の帰国を認めた上、アウクスブルク同盟に加盟してルイ14世から離れていった。大同盟戦争では反フランス側に立ってハプスブルク家と組み、はとこ|又従弟のオイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲンと共にイタリアでフランス軍と対峙したが、1690年のシュタファルダの戦いでフランスの将軍ニコラ・カティナに敗北、1693年のマルサリーアの戦いでも敗れるとフランスと秘密交渉に入り、1696年にフランスと和睦、同盟から離脱した。フランスから軍事基地となっていたピネローロ、カザーレ・モンフェッラートを返還させ、合わせて娘のマリー・アデライード・ド・サヴォワ|マリーア・アデライデをルイ14世の孫のブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公ルイ (ブルゴーニュ公)|ルイに嫁がせた。もう1人の娘マリア・ルイーザ・ディ・サヴォイア|マリーア・ルイーザもブルゴーニュ公の弟で後のスペイン王フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世に嫁いでいる。スペイン継承戦争では初めフランス側だったが、1703年に密かに同盟に

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