画像引用元: upload.wikimedia.orgレーモン4世
レーモン4世(, 1052年頃 - 1105年)は、トゥールーズ伯、プロヴァンス伯|プロヴァンス辺境伯で第1回十字軍の主要な指導者の1人。エルサレム占領後、トリポリ伯国|トリポリ伯領の基盤を創設した。10代でサン=ジル (ガール県)|サン=ジル伯を継承したため、レーモン・ド・サン=ジル(Raymond de Saint-Gilles)とも。隻眼だったと言われている。レーモンはトゥールーズ伯ギヨーム4世 (トゥールーズ伯)|ギヨーム4世の弟であったが、ギヨーム4世が娘(アキテーヌ公ギヨーム9世 (アキテーヌ公)|ギヨーム9世の妃)を後継者に指名して亡くなった時、簒奪してトゥールーズ伯となった。このため、しばしば伯位を主張するアキテーヌ公の攻撃を受けた。3度結婚しているが、最初の2回は近親結婚として婚姻の無効|無効とされており、それを理由に2度破門を受けている。このため、最初の妻との子である長子ベルトランは庶子と見なされることが多い。十字軍以前にもスペインでイスラム教徒と戦っており、第1回十字軍の勧誘においても諸侯の中で真っ先に参加を誓ったと言われる。年齢的にも最年長であり、南仏諸侯のリーダーと見なされた。コンスタンティノープルでは東ローマ帝国|東ローマ皇帝に臣従を誓わず、むしろ友人としてボエモン1世 (アンティオキア公)|ボエモンに対する同盟を組んだと言われる。1097年のアンティオキア包囲戦では、配下のペトルス・バルトロメオという人物が聖槍を発見したとして、大いに十字軍の士気を揚げている。アンティオキア攻略後、市内に兵を駐留させていたが、アンティオキア領有を主張するボエモンに追い出されてしまう。同じ南仏出身であった教皇使節アデマール・ド・モンテイユ|アデマールがアンティオキア陥落直後に死んだ後は、ボエモンとの対立を仲裁をする者もなくなり、ますます確執が深まる。レーモンはボエモンの領土拡張を妨げるために、独自の領土としてトリポリ (レバノン)|トリポリの所有を望んだが、兵達はエルサレム進撃を望んだため、一次中断し、ゴドフロワ・ド・ブイヨン|ゴドフロワらと共にエルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレムを攻略した。当初、彼がエルサレム王国|エルサレム王に推戴されたが、イエス・キリスト|キリストが磔になった地で王と呼ばれたくないとしてこれを断った。このためゴドフロワが王に選ばれたが、ゴドフロワもまた王と呼ばれることを
