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レーモン3世

推定知名度1.04%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

レーモン3世(Raymond III, 1140年 - 1187年)は、トリポリ伯。母オディエルヌはエルサレム王国|エルサレム王ボードゥアン2世 (エルサレム王)|ボードゥアン2世の娘。1164年、アルターの戦闘で捕虜となり、10年間牢につながれた。解放後の1174年、ゴーティエ・ド・サントメールの寡婦でガリラヤ女公(ティベリアス領主)のエスティヴァと結婚し、ティベリアスを領地として得た。当時、フランク人でもっとも賢明な人物といわれ、1174年にエルサレム王国|エルサレム王ボードゥアン4世(従兄の子にあたる)の摂政となり、のちにその甥で後継者のボードゥアン5世 (エルサレム王)|ボードゥアン5世の摂政も務めたが、1186年、ボードゥアン5世の死後エルサレム王位についたギー・ド・リュジニャンと対立した。1187年春にサラーフッディーン|サラディンが侵攻した際には、独断で休戦協定を結んだが、その後ルノー・ド・シャティヨンやテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールがムスリムを襲撃し、休戦は破棄された状態となった。同年7月2日、サッフリーヤに陣をかまえる十字軍国家のフランク軍をおびき出すため、サラディンはレーモンの妻とその子(前夫との息子)のいるティベリアスを攻撃した。7月4日、フランク軍はヒッティーンの戦いにおいてムスリム軍に大敗し、エルサレム王ギーやルノーは捕虜となったが、レーモンは先遣部隊を率いてムスリム軍の包囲を突破し、逃げ切ることができた。しかし、レーモンはその後まもなくしてトリポリで病没した。レーモンと妻エスティヴァの間に子はなく、レーモンはアンティオキア公ボエモン3世の長子レーモン(4世)を養子としてトリポリ伯位の後継者に指名した。しかし、ボエモン3世の意向により、トリポリ伯位はレーモンの弟ボエモン4世に継承された。レーモン(4世)は父ボエモン3世に先立って死去した。

過去の推移