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レーモン・ド・ポワティエ

推定知名度1.18%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

レーモン・ド・ポワティエ(Raymond de Poitiers, 1099年? - 1149年6月29日)は、アンティオキア公国の支配者(在位:1136年 - 1149年)。アキテーヌ公ギヨーム9世 (アキテーヌ公)|ギヨーム9世の二男。アンティオキア公国の摂政だったボードゥアン2世 (エルサレム王)|ボードゥアン2世とフールク・ダンジューに従い、レーモンは10歳の女公爵コンスタンス (アンティオキア女公)|コンスタンスと結婚した。公国を思いのままにしようとしていた、コンスタンスの生母アリックスから幼い女公爵を法的にも引き離すためで、公国にとって救いの主だった。アリックスには、美男のレーモンを彼女の夫にするように見せかけていたため、恥をかかされたと知った彼女は亡命した。共同統治の最初の年から、東ローマ帝国皇帝ヨハネス2世コムネノスとの衝突に悩まされた。キリキア・アルメニア王国を取り戻すという名目で軍を南下させ、アンティオキアを包囲したのである。レーモンは、皇帝に忠誠を誓わされ、領地を割譲させられた。替わりに、アンティオキア西部のイスラム領を得たら、レーモンへ分け与えるということになった。1138年、レーモンはヨハネス2世の遠征に加わることを強制された。アンティオキア総司教を選挙で選ぶことは疑わしいと考えていたレーモンは、総司教にも忠誠を誓わされるにおよび、不快がつのった。結局、1139年に総司教は退位した。1142年に再びヨハネス2世に包囲されたが、この時のレーモンは以前の服従と違い、改心を拒んだ。帝国軍は、アンティオキア周辺を荒らし回り、誰も皇帝に対抗することができなかった。レーモンは、1143年に即位したマヌエル1世コムネノスからシリシアの都市を割譲するよう要求された。レーモンが好敵手であることを見抜いたマヌエル1世は、主従の誓いと、正教の大主教へ挨拶するよう命じ、コンスタンティノープルで恥をかかせようとした。1149年、ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世と王妃アリエノール・ダキテーヌ|エレアノール・ダキテーヌ(レーモンの兄の娘)がアンティオキアを訪問した。レーモンは、ルイにエルサレムへ向けて南下せず、アンティオキアにとどまってアレッポとカエサリアの征服に協力してくれるよう頼んだ。レーモンは、美しい姪のエレアノールとの仲の良いところを見せつけたため、周囲の者たちに近親相姦ではないかと疑われた。ルイは、彼らが

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