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ルネ・ド・フランス

推定知名度0.88%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

ルネ・ド・フランス(Renée de France, 1510年10月25日 - 1574年6月12日)は、フェラーラ公エルコレ2世・デステの妃。イタリア語名ではレナータ・ディ・フランチア(Renata di Francia)と呼ばれた。フランス王国|フランス王ルイ12世 (フランス王)|ルイ12世と王妃アンヌ・ド・ブルターニュの次女として、ブロワで生まれた。ルイ12世の子供は他に長女クロード・ド・フランス|クロードしかおらず、サリカ法典|サリカ法によりルネたち姉妹の又従兄にあたる傍系のアングレーム伯フランソワが王位継承者となった。フランソワはクロードと結婚し、ルイ12世が1515年に没するとフランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世として即位した。母アンヌはその前年に死去している。早くに母を失ったルネは、スービーズ夫人の献身により育てられた。ルネには母を通じてブルターニュ公国の継承権があったが、のちに継承権放棄の見返りとして、義兄フランソワからシャルトル公爵夫人とされた。子供時代の侍女の一人にイングランド王国|イングランド人アン・ブーリンがおり、ルネはアンの優しさをいつまでも忘れなかった。1528年4月、ルネはフェラーラ公アルフォンソ1世・デステ|アルフォンソ1世の跡継ぎエルコレと結婚した。ルネには、フランソワ1世から十分すぎるほどの持参金と年金が贈られた。新しいルネの宮廷は、科学と芸術が暗黙の内に認められた、学者ベルナルド・タッソやフルヴィオ・ペレグリーニらを擁する、進歩的な場所だった。1534年10月31日、夫が公爵位を継いだ。エルコレは、ローマ教皇パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世への忠誠の誓いに力を尽くし、反フランスに鞍替えした。エルコレはフランス勢力を除くことに一生懸命になり、節約のためとして宮廷に抱えていた詩人や学者を次々と解雇に追い込んだ。迫害されてイタリアを追われたジャン・カルヴァンが、ルネの宮廷へ現れたのは1536年だった。ルネは国外のインテリでプロテスタント同調者らと文通をしており、1550年頃、福音式で聖餐を娘ら信者らとともにした。宗教改革の波はフェラーラにも及び、1545年からフェラーラでも宗教裁判による特別法廷が導入された。数人の福音シンパに死刑判決が下され、俗人の手により処刑された。ついに、エルコレは妻ルネを異教徒だと告訴した。ルネは捕らえられ、プロテスタント信仰を撤回し

過去の推移