ラモラール・ファン・エフモントの画像画像引用元: upload.wikimedia.org

ラモラール・ファン・エフモント

推定知名度0.85%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

ラモラール・ファン・エフモント(オランダ語|蘭:Lamoraal van Egmont, フランス語|仏:Lamoral d'Egmont, 1522年11月18日 - 1568年6月5日)は、フランドルの軍人、政治家。八十年戦争初期の指導者の一人。エフモント伯、エグモン伯、エグモント伯の称号で知られる。1541年、エフモント伯を相続した。当時ネーデルラント地方を支配していた神聖ローマ皇帝カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世のアルジェ遠征に従軍、1554年イングランド王国|イングランドへ渡り、カールの子フェリペ(フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世)とメアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世の婚儀を成立させた。1557年、フェリペ2世の対フランス王国|フランス戦におけるフランドル騎士団の指揮官を任じられ、サン・カンタン、グラヴリーヌ(1558年)で戦功を挙げ、1559年、フェリペからフランドル、アルトワ両州の知事に指名された。故郷に戻り、スペインによるネーデルラント属領支配に憤った彼は、カルヴァン派の浸透し始めた地元ブルジョワ階級に支持を受け、オラニエ公ウィレム1世 (オラニエ公)|ウィレム1世、ホールン伯フィリップ・ド・モンモランシー|フィリップらとともに、フェリペの派遣した総督でパルマ公国|パルマ公妃マルゲリータ・ダウストリア (パルマ公妃)|マルゲリータおよび枢機卿アントワーヌ・ド・グランヴェル|グランヴェルの専制に抵抗した。1564年には、グランヴェルをスペインへ退去に追い込んだ。しかしフェリペが宗教裁判政策を改めることはなく、ラモラールはその緩和のためにスペイン宮廷へ赴くが、むなしく帰国した。その後1566年に組織された中小貴族の反対同盟には加わらなかったが、ラモラールに対する王の疑惑は解けなかった。1567年、新総督アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドが着任するとただちに逮捕され、翌年の裁判でモンモランシーとともに死刑を宣告されてブリュッセルで斬首刑に処された。

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