画像引用元: rr.img.naver.jpヤズィード1世
ヤズィード1世またはヤズィード・イブン・ムアーウィヤ・イブン・アブー・スフヤーン(يزيد بن معاوية بن أبي سفيان、Yazid Ibn Muawiyah Ibn Abu Sufyan、647年7月20日 - 683年11月11日)はウマイヤ朝の2代目カリフ(在位:680年 - 683年)。ムアーウィヤの子。イスラムの最高指導者であるカリフは合議によって選ばれていたが、選定は常に紛糾し、結局は新カリフが即位するたびにイスラム世界は分裂の危機にさらされた。カリフの地位の不安定さは、ムアーウィア以前の歴代4人のカリフの内、初代アブー・バクルの他は全員暗殺されていることからも明らかだった。そこでムアーウィヤはカリフの地位を世襲制にすることでイスラム世界の政治的安定を図った。こうして選ばれたのがムアーウィヤの子のヤズィードである。680年、ヤズィードは父ムアーウィヤから臨終の際に、アリーの子のフサインは今に叛乱を好む者に担がれるだろうが、高貴な血を引く者なのでよく遇せよ、と言い残した。するとヤズィードは父の死後、フサインに忠誠を誓わせようと首都ダマスクスに呼び出した。しかしフサインは忠誠を誓わずにメッカへと逃げた。この頃、クーファにはアリーが本拠地を置いたこともあってアリーを信奉するシーア派の人々が集まっていた。これらの人々はウマイヤ家の世襲カリフに反発していたので、アリーの子のフサインを迎えてウマイヤ朝を打倒しようと考えた。フサインもこれを聞いてクーファへと向かったが、ヤズィードもクーファの動きは警戒していたのですぐさま軍隊を派遣してクーファを制圧した。そうと知らないフサインはその頃すでにクーファ近郊まで来ており、ヤズィードはフサインを捕えるように軍隊に命令した。しかし、フサインの一行はアーシューラーの日(ムハッラム月10日)にカルバラー砂漠において虐殺されてしまう。これをカルバラーの悲劇という。イスラムの預言者ムハンマドの孫であるフサインはイスラム世界において広く尊敬されていたので、この事件でヤズィードはシーア派のみならずスンニ派からも大いに非難された。またこの事件以降、スンニ派とシーア派は完全に分裂し、両者の溝は今でも埋まっていない。また、クーファやダマスクスに政治や経済の中心が遷り、不満を感じていた人々も、683年にヤズィードに反発してカリフを宣言したアブドゥッラー・イブン・アッズバイルを中心
