画像引用元: upload.wikimedia.orgマリー・クリスティーネ・フォン・オルレアンス
マリー・クリスティーネ・フォン・オルレアンス(Marie Christine von Orléans, 1813年4月12日 - 1839年1月6日)は、ヴュルテンベルク公子アレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルク (1804-1881)|アレクサンダーの妻。フランス語名マリー・クリスティーヌ・ドルレアン(Marie Christine d'Orléans)。オルレアン家|オルレアン公ルイ・フィリップ3世(のちのフランス王国|フランス王ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ)と妃マリー・アメリー・ド・ブルボン|マリー・アメリーの次女として、パレルモで生まれた。姉にベルギー王妃ルイーズ=マリー・ドルレアン|ルイーズ・マリーがいる。1834年初め、7月王政の安泰を目指すため、マリーの母方の従兄の両シチリア王国|両シチリア王フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世は、自身の弟レオポルド・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ|シラクサ伯レオポルドとマリーの結婚をルイ・フィリップに持ち出した。レオポルドは、7月革命でフランスを追われたシャルル・フェルディナン・ダルトワ|ベリー公シャルルの妃マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン|マリー・カロリーヌの異母弟にあたる。しかしながら、1834年4月にフランスで起きた小規模の反乱に衝撃を受け、ナポリの両シチリア宮廷は、マリーをただちにレオポルドの元へ送り出すよう求めてきた。ルイ・フィリップ王の子供として、資産家であるオルレアン家の遺産を相続する権利のあるマリーを手中に置きたかったためである。この露骨で常識はずれな要求にフランス側があきれ、結婚話は潰れた。1837年、マリーはアレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルクとヴェルサイユ宮殿で結婚した。挙式はカトリック教会|カトリック式とルーテル教会|ルター派にのっとって、それぞれ1回ずつ行われた。ヴュルテンベルク王位継承順位からほど遠いアレクサンダーとの結婚の利点は、彼の母親アントイネッテ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト|アントイネッテがベルギー王レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世の姉であり、アレクサンダーは甥にあたることから隣国ベルギーに介入しやすいとの一点であった。1838年、マリーは肺結核を患い、回復に一縷の望みをかけて温暖なピサで療養していた。ルイ・フィリップ国王夫妻に依頼されてマリ
