画像引用元: img-cdn.jg.jugem.jpマリーア・ベアトリーチェ・ディ・サヴォイア
マリーア・ベアトリーチェ・ヴィットーリア・ジュゼッピーナ・ディ・サヴォイア(Maria Beatrice Vittoria Giuseppina di Savoia, 1792年12月6日 - 1840年9月15日)は、モデナ公フランチェスコ4世 (モデナ公)|フランチェスコ4世の妃。サルデーニャ王国|サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世と王妃マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ|マリーア・テレーザの長女として生まれた。1812年6月20日、母方の叔父にあたるオーストリア=エステ大公フランチェスコと結婚した。2人は非常に近い血縁であったため、ローマ教皇ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世から結婚の際に特免状が出された。フランチェスコは1814年7月14日、モデナ・レッジョ・エミリア|レッジョ及びミランドラの支配者となった。2人には4子が生まれた。*マリー・テレーズ・ド・モデーヌ|マリーア・テレーザ(1817年 - 1886年) アンリ・ダルトワ|シャンボール伯アンリの妻*フランチェスコ5世 (モデナ公)|フランチェスコ5世(1819年 - 1875年) モデナ公*フェルディナント・カール・フォン・エスターライヒ=エステ (1821-1849)|フェルディナンド・カルロ(1821年 - 1849年) *マリーア・ベアトリーチェ・ダズブルゴ=エステ|マリーア・ベアトリーチェ(1824年 - 1906年) フアン・カルロス・デ・ボルボーン (モンティソン伯)|モンティソン伯フアンの妻1824年1月10日の父ヴィットーリオ・エマヌエーレの死にともない、長女マリーア・ベアトリーチェがジャコバイトの主張するところの「イングランド王国|イングランド女王メアリー3世およびスコットランド王国|スコットランド女王メアリー2世」となった。当然ながら、父と同様にマリーア・ベアトリーチェも現実味のない王位請求を行わなかった。1840年9月15日、マリーア・ベアトリーチェは心臓疾患が原因で死んだ。
