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マリア・バグラティオニ

推定知名度0.15%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

マリア・バグラティオニ(Maria Bagrationi, 1050年? - 1103年)は、東ローマ帝国皇帝ミカエル7世ドゥーカスの皇后。結婚後マリアと改名した。再婚して同じく皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスの皇后になった。アラニアのマリアとも呼ばれるため、実母ボレナと混同されやすい。美貌と知性の持ち主として知られ、グルジア正教会や聖地エルサレムへの寄進をおこなっていた。グルジア王バグラット4世(1027年 - 1072年)と2度目の王妃ボレナ(別名アラニアのマリア)の王女マルタ(Martha)として生まれる。母はアラン族の出身。テオドラ (東ローマ女帝)|テオドラ女帝の庇護を頼り、教育を受けるべく、1056年にコンスタンティノープルへ向かうが、同年のうちに女帝が逝去したため、帰国した。1065年、皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスの後継者ミカエル7世ドゥーカス|ミカエルと結婚。1子コンスタンティノス・ドゥーカスをもうけた。夫が将軍ニケフォロス3世ボタネイアテス|ニケフォロス・ボタネイアテスの反乱により修道院へ引退させられると、マリアは彼と結婚した。先代の皇后と結婚して皇位の安定を謀ることは、当時よく行われたことだった。ニケフォロスとの間には子供ができなかったため、皇帝はミカエル7世の長子コンスタンティノス・ドゥーカスを後継に指名した。ニケフォロスは軍人出身で優しい夫ではなく、元々好きで結婚したわけでもなかったため、マリアはやがて皇位転覆を狙う、10歳近く年下の将軍アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス・コムネノスに心を移すようになった。2人は相思相愛であるとの噂も流れた。当時アレクシオスには9歳年下の、まだ12歳の妻エイレーネー・ドゥーカイナがいた。やがて反乱は成功し、ニケフォロスは修道院へ押し込められ、1081年にアレクシオスが即位した。しかし、彼はエイレーネーと離婚し、前皇后マリアと結婚するつもりであったため、皇后となったエイレーネーの戴冠を延期させた。しかしエイレーネーの生家である有力貴族ドゥーカス家と、ドゥーカス家の縁者で軍人貴族であるパライオロゴス家が、新皇帝の仕打ちに待ったをかけた。今回の反乱でコムネノス家に同調したのは、「皇后エイレーネーのためだ。」というのだった。また、ギリシャ正教では三度目の再婚は禁止されていた。足をすくわれかねない状況に、アレクシオスは考えを変え、マリアとの再婚を断

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