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フランチェスコ1世・デステ

推定知名度0.31%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

フランチェスコ1世・デステ (Francesco I d'Este , 1610年9月6日 - 1658年10月14日)は、フェラーラとモデナの君主一覧|モデナ及びレッジョ公。アルフォンソ3世・デステとイザベッラ・ディ・サヴォイア(サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世の次女)の次男として生まれた。妃イザベッラが早世したのち、世をはかなんだアルフォンソ3世は僧となるため息子フランチェスコへ譲位した。最初にフランチェスコが直面したのは、1630年から1631年にかけてペストの大流行でモデナの住民の約7割を失ったことだった。1631年、マリーア・ファルネーゼ|マリア・カテリーナ・ファルネーゼ(パルマ公国|パルマ公ラヌッチョ1世・ファルネーゼ|ラヌッチョ1世の娘)と結婚。三十年戦争が勃発すると彼はスペイン側につき、パルマ公国へ侵攻した。彼がスペインへ旅行し経費を支払ったとき、彼は何もスペインからもらうことがなかったが、ただ一つ23万フローリンの支払いによってコッレッジョを獲得した。後のカストロ戦争では、フェラーラ再征服を狙う教皇|ローマ教皇ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世に対抗してヴェネツィア、パルマ、フィレンツェと同盟。戦争は1644年3月に、モデナ人のために何も得るものがないまま終結した。再び、スペインからの何の助けも望めなくなると、彼はジュール・マザラン|マザラン枢機卿の調停でフランス王国|フランスと結んだ。彼がクレモナ征服に失敗すると、三十年戦争はスペイン有利に傾いたため、フランチェスコはフランスへ渡り、マザランの姪ラウラ・マルティノッツィと嫡子アルフォンソ4世・デステ|アルフォンソの縁組みを整えた。ミラノからやってきたスペイン軍の侵攻に耐えたのち、彼はフランス、サヴォイア公国と同盟し1656年から1657年にかけてアレッサンドリアとヴァレンツァを息子の協力で征服した。1658年にモルターラを征服するものの、マラリアにかかってサンティアで急逝した。彼は腕のいい軍人であり、善良な性格で信仰心の篤い人物だった。彼は公国宮殿、巨大なスペルタ劇場、ペンテットーリの別荘、ナヴィーリョ海峡の広大化と港の補修、チッタデッラの再建設など、モデナのインフラ整備に努めた。

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