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ピエール1世

推定知名度0.54%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

ピエール・ド・ドルー(Pierre de Dreux、1178年頃 - 1250年7月6日)は、ブルターニュ公国摂政(バリストル、、1213年 - 1237年)、リッチモンド伯|リッシュモン伯、1250年以降はマシュクール領主。1213年から1237年までブルターニュ君主一覧|ブルターニュ公として列せられている。ドルー家のロベール2世 (ドルー伯)|ロベール2世とヨランド・ド・クーシの子として、ドゥールダンで生まれた。ロベール2世の祖父はルイ6世 (フランス王)|ルイ6世であるため、カペー家とは縁戚関係にあった。幼い頃から聖職者になるよう育てられたが還俗したため、「悪しき聖職者」を意味する別称を付けられ、ピエール・モークレール(Mauclerc)とも呼ばれた。彼を聖職者にしようとした父ロベール2世、その墓所がある教会に掲げられた父の紋章を彼が壊した挿話がこの別称の下敷きとなっている。ピエールはイングランド王国|イングランドと争うフランス王フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世の臣下であり、1213年にブルターニュをフランス側におくため女公アリックス・ド・トゥアルと結婚した。1214年には王太子ルイ(のちのルイ8世 (フランス王)|ルイ8世)を補佐してラ・ロシュ・オー・モワーヌの戦いでジョン (イングランド王)|ジョン欠地王と戦っている。1219年にもアルビジョワ十字軍に加わり、マルマンド攻略とトゥールーズ包囲に参加している。ブルターニュに戻って1222年には、ブルターニュの男爵たちの反乱を抑え、ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世と戦うルイ8世に加勢している。ピエールはアルビジョワ十字軍に加わった諸侯であったが、ルイ8世の死後、1227年から1234年まで摂政だったブランシュ・ド・カスティーユに対して起こされた4度の反乱(王国のほとんどの諸侯が参加した)に加わっている。1221年に女公アリックスが死ぬとブルターニュ公国摂政にされ、長男ジャン1世 (ブルターニュ公)|ジャン1世が成人する1237年まで務めた。ピエール・モークレールはピエール・ブレーヌ(Pierre de Braine)と呼ばれるようになり、1240年には異教徒と戦うため聖地へ向かった。帰国後、イングランドとの海上戦でいくつかの勝利を収めている。1249年、ピエールはルイ9世 (フランス王)|聖王ルイの第7回十字軍に参加したが、帰国

過去の推移