画像引用元: --ピエール・マリー・オーギュスト・ブルソネ
ピエール・マリー・オーギュスト・ブルソネ(Pierre Marie Auguste Broussonet、1761年1月19日 - 1807年7月27日)は、フランスの医師、博物学者、魚類学者である。モンペリエで生まれた。父親も医師で、モンペリエ大学の医学の教授で、父親の影響を受けて博物学に興味を持った。医学を学び、1778年に医学の学位を得た。1780年にロンドンに渡り、ジョセフ・バンクスらの多くの科学者と知り合い、ヨハン・フォースター、ダニエル・ソランダー、Alexander Dalrymple、アンデシュ・スパルマン、ジョン・シブソープ、ジェームズ・エドワード・スミスらともつきあった。1781年から、ジェームズ・クック船長の航海で採集された魚類の記述した \"Ichthyologiae Decas I\"の執筆に加わった 。1782年にパリに戻ると、植物学者のルネ・デフォンテーヌとシャルル=ルイ・レリティエ・ドゥ・ブリュテルと親しくなった。シブソープと数ヶ月に渡って、南フランスを旅し、ピエール・アンドレ・プーレとカタロニアを旅した。ブルソネはアンドレ・トワンらとともに1787年にパリ・リンネ協会の創立するが、協会は1789年に解散した。リンネの分類法の支持者であった。1784年にアルフォール国立獣医学校のルイ・ドバントンの助手となり、家畜の交配改良などに従事した。この時期は農業分野に専念し、農学会の事務局長に任じられた。1789年に国立制憲議会の、議員に選出され、ジロンド派に属した。1793年に、多くの主要なジロンド派のメンバーが逮捕と処刑がされるようになると、ブルソネも追放され、パリを離れた。モンペリエから、彼はマドリードに亡命した。さらにスペインを離れ、リスボンを経て、モロッコの米国大使館に避難した。亡命したモガドール(現在のエッサウイラ)がペストの流行で住民の2/3が死亡したため、1799年にカナリア諸島に逃れ、1803年まで、テネリフェ島に留まった。亡命の間に北アフリカの植物を収集した。1803年にフランスに戻ることが可能となり、モンペリエの家族のもとに戻った。モンペリエ大学の植物学の教授の職を得た。教育の他に、モンペリエの植物園の成立に尽力し、植物園の目録、\"Elenchus plantarum Horti Botanici monspeliensis\"を出版した。
