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バヤン

推定知名度0.32%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

バヤン(Bayan, ? - 1340年)は、元朝後期の将軍。漢字表記は伯顔。アスト人親衛軍を率いる軍閥の長で、中国を支配した最後のモンゴル帝国大ハーンとなったトゴン・テムル(順帝)の治世初期に専権を振るった。出自であるメルキト部は、元来チンギス・ハーンのモンゴル高原統一に抵抗して滅ぼされた部族(ウルス)であったが、バヤンの曽祖父は大ハーンの本営(オルド)に従士として仕えており、モンゴルの譜代部将の家柄に属している。祖父はモンケの南宋遠征に従軍し、父はクビライの皇太子チンキムの家に仕えた。バヤンも若くしてモンゴル軍人となり、アルタイ山脈方面の前線に派遣される懐寧王カイシャンに付属され、カイドゥとの戦いで戦功をあげて「バートル」(勇者)の称号を与えられた。1307年、大ハーンのテムルが崩ずると政変が起こり、モンゴル高原の全遊牧民の軍団を後ろ盾とするカイシャンが勝利した。カイシャンのハーン即位により、カイシャンの部下であったバヤンも中央政府の高官である吏部尚書に任命され、カイシャン政権の有力者に列した。1309年には宰相格の尚書平章政事にすすめられるとともに、アスト人親衛軍の指揮官(阿速親軍都指揮使)に任命される。アスト人はバトゥの征西のとき征服された北カフカスのイラン系民族で現在のオセット人の先祖であり、バヤンが指揮を委ねられたアスト人親衛軍は、アスト征服の折りにモンゴル帝国に降伏したアスト人兵士からなるカイシャン子飼いの精鋭部隊であった。しかし、1311年にカイシャンが急死を遂げ弟のアユルバルワダが即位すると、カイシャン政権の中核だった尚書省は解体され、カイシャン・アユルバルワダ兄弟の母である皇太后ダギの息のかかった将軍が取り立てられた。尚書省のメンバーだったバヤンのアスト人軍閥もカイシャン派として左遷され、中央から遠く離れた南方の地方官に転出する。1323年、晋王イェスン・テムルがハーンに即位すると、モンゴル高原から自らの子飼いの部将を引き連れてきたイェスン・テムルによってダギ派に属する有力者が一掃されたため、カイシャン派の残党であるバヤンの待遇も和らいで、1326年に中央に近い河南行省の平章政事に任ぜられた。1328年、イェスン・テムルが上都で急死すると、再び大ハーンの座を巡って政変が起こり、大都に駐留していたカイシャン恩顧のキプチャク人親衛軍の将軍エル・テムルが決起を企てて江陵にいたカイシャンの遺児トク・テ

過去の推移