画像引用元: upload.wikimedia.orgバシレイオス2世
バシレイオス2世“ブルガロクトノス”(Βασίλειος Βʹ ὁ Βουλγαροκτόνος、958年 - 1025年12月25日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:976年 - 1025年)。禁欲的な軍人皇帝として活躍し、第一次ブルガリア帝国などの周辺地域を征服。東ローマ帝国の最盛期を現出した。“ブルガロクトノス”は「ブルガリア人殺し」を意味する渾名。中世ギリシア語読みでは「ヴァシリオス」となる。マケドニア王朝の皇帝ロマノス2世の長男として産まれるが、父が若くして急死した。以後は母テオファノの再婚相手である軍事貴族出身の皇帝ニケフォロス2世フォカス、次いでニケフォロス2世を殺害して帝位を奪ったヨハネス1世ツィミスケスの下で、単なる飾り物の共同皇帝としての幼少年期を過ごした。976年のヨハネス1世の死によって、成人していたバシレイオスは晴れて正帝となったが、軍事貴族の相次ぐ反乱、第一次ブルガリア帝国との戦争などに悩まされ、一時は軍事貴族バルダス・フォカス(ニケフォロス2世フォカスの甥)が率いる反乱軍によって絶体絶命の危機に陥った。しかし軍事貴族の反乱はキエフ大公国の援軍を得て平定(:en:Rus'-Byzantine War (987))。第一次ブルガリア帝国に対しては幾度もの戦いの末、1014年にクレディオン峠の戦いで大勝した。この戦いの際、ブルガリア人捕虜1万4千のうち100人に付き1人だけ片目を、残りのものは両目を潰し、ブルガリア皇帝サムイルの元へ送り返した。ひとりの目が見える男を先頭に99人の盲人が付き従って帰還したその光景を見て、サムイルは卒倒して死去したという。1018年にはブルガリアを完全に滅ぼして、東ローマ帝国によるバルカン半島全域の支配を約400年振りに回復した。これによってバシレイオス2世には「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」というあだ名が付けられた。しかし、征服した後はまるで別人のように寛容な政策を取り、帝国の他地域と違って税金を物納にすることも許している。また、イスラーム勢力や南イタリアのランゴバルド人との戦いにも勝利し、北はドナウ川、南はクレタ島、東はシリア・アルメニア、西は南イタリア(マグナ・グラエキア)に及ぶ大帝国を建設。東ローマ帝国に中世の黄金時代をもたらした。11世紀中頃の知識人・政治家であるミカエル・プセルロスは、他の皇帝と違ってバシレイオスは勝利するまで帰
