画像引用元: upload.wikimedia.orgハンガリーによるヴィディン占領
ハンガリーによるヴィディン占領は、今日の北ブルガリア・ヴィディン(ハンガリー語ではBodony。1359年から1360年以前に第二次ブルガリア帝国の帝位継承者であったイヴァン・スラツィミール(Иван-Срацимир)は、ヴィディンの所領にて独自の支配権を打ち立てて次第に事実上独立するようになった。1365年初頭に以前の王にならって自身の称号の中で\"ブルガリア国王\" (rex Bulgariae) を名乗っていたハンガリーのラヨシュ1世騎士王は、イヴァン・スラツィミールに対して自身への宗主権を認めて封臣となるよう要求した。これをスラツィミールが拒絶すると、ラヨシュ1世はヴィディン帝国(Видинско царство)を攻略すべく遠征に着手した。1365年5月1日にラヨシュ1世はハンガリーを出立して30日にはヴィディンに到着し、短期間の攻城戦の後に6月2日に帝都を落とした。ハンガリー人はイヴァン・スラツィミールとその家族を捕虜として、今日のクロアチア・ボシリェヴォ(Bosiljevo)に位置するフムニク要塞に監禁した。それから程なくしてハンガリー軍は、ヴィディン帝国一帯を占領して、バンが統治するハンガリー王国の一地区に組み入れた。ハンガリー側の資料によれば、フランシスコ会は20万人もしくは住民の3分の1を改宗させたということであるが、確実に改宗したのはイヴァン・スラツィミールとその家族のみであることから、その実態は概して誇張されており非現実的である。イヴァン・スラツィミールの父でブルガリアのタルノヴォの統治者であるツァール・イヴァン・アレクサンダル(Иван-Александър)は、ハンガリーの侵攻と息子の虜囚に対してどうすることも出来なかった。しかし数年後にイヴァン・アレクサンダルは、東ローマ皇帝ヨハネス5世パレオロゴスのヴィディンでの抑留とサヴォイア伯国のアメデーオ6世緑衣伯(Amedeo VI di Savoia)によるブルガリアの黒海沿岸(Българско Черноморие)への遠征を機に正教徒どうしの連携によるヴィディンへの救援を実現した。イヴァン・アレクサンダルは東ローマ帝国にネセバル(Messembria)南部の黒海の港の返還を申し出ることで同盟に参加させたが、ヨハネス5世はワラキアのヴォイヴォダ・ヴラディスラヴ1世(Vladislav I al Țării Rom
