画像引用元: upload.wikimedia.orgニコラウス・ヴィルヘルム・フォン・ナッサウ
ニコラウス・ヴィルヘルム・ツー・ナッサウ(Nikolaus Wilhelm zu Nassau, 1832年9月20日 ビーブリッヒ城、ヴィースバーデン=ビーブリッヒ|ビーブリッヒ - 1905年9月17日 ヴィースバーデン)は、ドイツ・ナッサウ公国の公子。ルクセンブルク大公アドルフ (ルクセンブルク大公)|アドルフの異母弟、スウェーデン王妃ゾフィア・フォン・ナッサウ|ソフィアの同母兄である。ナッサウ公ヴィルヘルム (ナッサウ公)|ヴィルヘルムとその2番目の妻でヴュルテンベルク王子パウル・フォン・ヴュルテンベルク|パウルの娘であるパウリーネ・フォン・ヴュルテンベルク (1810-1856)|パウリーネの間の息子として生まれた。フランス軍の士官となり、1859年に第2次イタリア独立戦争に従軍している。1862年にギリシャ王国|ギリシャ王オソン1世 (ギリシャ王)|オソン1世が廃位されると、イギリスの首相パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル|パーマストン卿によって次のギリシャ国王の候補に立てられた。パーマストン卿はロシア帝国|帝政ロシアとの結びつきの強い国王を選ぶのが適切と考えており、大勢の親族がロシア帝室に嫁いでいるニコラウスが適当と映ったのである。しかし、フランス皇帝ナポレオン3世は、自国の士官がクリミア戦争で交戦して日も浅いロシア帝国との結びつきからギリシャ王になるのは不愉快だとして、これに反対した。結局、ギリシャ王位に就いたのはグリュックスブルク家|グリュックスブルク公爵家の公子ヴィルヘルム(ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世)であった。1856年、ニコラウスは兄のナッサウ公アドルフの名代としてロシア皇帝アレクサンドル2世の戴冠式に出席した。このとき、高名な詩人アレクサンドル・プーシキンの娘ナターリヤ・アレクサンドロヴナ・プーシキナ(Наталья Александровна Пушкина, 1836年 - 1913年)と知り合い、愛人関係になった。ナターリヤはミハイル・ドゥーベルト(Михаил Леонтьевич Дубельт, 1822年 - 1900年)という将軍の妻だったが、夫婦仲が悪く、1862年に夫と3人の子供を捨ててニコラウスに走った。ドゥーベルトとの離婚は1868年5月18日に成立した。1868年7月1日、ナターリヤと正式に結婚した。この結婚は貴賤結婚とされたため
