画像引用元: upload.wikimedia.orgセルゲイ・ネチャーエフ
セルゲイ・ゲンナジエヴィッチ・ネチャーエフ(Сергей Геннадиевич Нечаев、Sergei Gennadiievich Nechaev 1847年10月2日 - 1882年11月21日)は、ロシアの革命家。ロシアのニヒリズム運動のオルガナイザー。モスクワ郊外のイワノヴォ村に生まれる。父は貧しい労働者、母は解放農奴の娘。6歳で母を失う。1865年モスクワに移り、一年後の1866年サンクトペテルブルクに移る。独学で教師の試験に合格し、教区立学校で教え始めた。その傍らでネチャーエフは、サンクトペテルブルク大学の聴講生となり、ピョートル・トカチョフと共に学内少数派だった急進派に属し、1868年から1869年の学生運動に参加した。ネチャーエフは、学生運動の革命化を図り、革命運動のプログラムを立案したが、それは、最終目標として1870年に社会革命を実現するというものであった。1869年1月に自身が逮捕されたとの偽情報を流して、スイスに亡命する。ジュネーヴでは、ペトロパヴロフスク要塞から脱獄した革命委員会の代表と僭称してバクーニンやニコライ・オガリョフに接近して信頼を得た。さらにゲルツェンの強い反対にも関わらず、両者から資金を得ることに成功し、革命を煽動する文書を作成する。その中で一番著名なものは、1869年夏に著した『革命家のカテキズム(革命家の教理問答)』である。「革命家とは予め死刑を宣告された存在である」という言葉ではじまる『革命家のカテキズム』は革命のためのプログラムであり、秘密組織を作り、破壊活動を行なうための方法を示唆する内容を有していた。その主張は、革命という「目的は手段を正当化する」という原理で貫かれ、後に「革命のマキャベリズム」、「革命のイエズス主義」と称された。1869年9月にモスクワに戻ったネチャーエフは、「世界革命同盟(Vsemirnyi Revolyutsionnyi Soyus、Worldwide Revolutionary Union)」という架空の団体のロシア代表部代表を名乗り、「人民の裁き(Народная расправа、Narodnaya Rasprava、People's Reprisal)」と呼ばれる秘密結社を作る。しかし、組織内部には、相互不信による対立が渦巻くようになり、内ゲバが生じた。ネチャーエフは、構成員の一人でペトロフスキー農業大学(現在の名称はチミリャー
