画像引用元: upload.wikimedia.orgサーリフ・ハーッジー
推定知名度1.01%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女
アル=サーリフ・ハーッジー(Al-Salih Salah Zein al-Din Hajji II、ハーッジー2世)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)のスルターン(在位:1381年 - 1382年、1389年 - 1390年)。第26代スルターン・アシュラフ・シャーバーンの子。第27代スルターン・マンスール・アリーの弟にあたる。1381年にマンスール・アリーが没した後、有力者である将軍バルクークが登位する噂が広まるが、他の将軍たちはブルジー・マムルーク(出身のマムルーク)であるバルクークの即位に反対していた。バルクークはバフリー・マムルーク(アイユーブ朝のスルターン・サーリフが創始したバフリーヤ軍団の出身者)の勢力が衰えるまで即位を延期するべきだと考え、マンスール・アリーの弟であるハーッジー2世を擁立した。ハーッジー2世の即位後、摂政となったバルクークが政務と軍事の全権を掌握した。バフリー・マムルークの有力者たちが相次いで没した後にバルクークは即位を決意し、1382年11月にハーッジー2世は廃位される。1389年にバルクークが反乱によって失脚した後、バルクークの政敵によってハーッジー2世が擁立され、一時的に復位する。1390年のダマスカス近郊の戦闘でハーッジー2世はバルクーク軍の捕虜となり、バルクークによって再び廃位された。 バルクークの復位により、カラーウーン家によるスルターン位の世襲は終わりを迎え、新たにブルジー・マムルーク朝が成立した。ハーッジー2世は廃位後もカイロに住み続けることを許されたが、後に毒殺される。
過去の推移
–06
–07
–08
–09
0.4910
0.711
0.7512
1.0613
1.0514
1.0115
1.0116
