画像引用元: upload.wikimedia.orgサイイド・アジャッル
サイイド・アジャッル・シャムスッディーン(سید اجل شمسالدین、Sayyid Ajall Shams al-Din, 1211年 - 1279年)は、モンゴル帝国(元)に仕えて中国の行政官を務めたムスリム(イスラム教徒)の官僚。漢字表記は賽典赤。ラカブ(尊称)はシャムスッディーン(赤贍思丁)、イスム(名)はウマル(عمر、Umar、烏馬兒)。ペルシア語資料では、サイイド・アジャッル・ブハーリー سيد اجلّ بخارى Sayyid Ajall Bukhārī の名で表れる。預言者ムハンマドの後裔を称するサイイドの名家の出身で、中央アジアの中心都市のひとつブハラ(現ウズベキスタン)に生まれ育った。チンギス・ハーンの中央アジア遠征のとき投降してハーンの側近に仕え、本名のかわりに「高貴なサイイド(聖裔)」を意味するサイイド・アジャッルの通称で呼ばれて尊敬を受けた。チンギスの死後、オゴデイの代に北中国の山西地方のダルガチ(行政官)を歴任し、次いで燕京(現在の北京)のジャルグチ(断事官)を務めた。第4代モンケの代にはマフムード・ヤラワチを長官として北中国全土を管轄するいわゆる燕京等処行尚書省が設置されると、彼は北京周辺の行政の最高責任者である燕京路総管に充てられ、モンケの南宋遠征(南宋戦争)において兵站を担当した。モンケの死後、弟のクビライが中国と内モンゴルを制して大ハーンを称すると、中国にいたサイイド・アジャッルもクビライの幕下に入り、燕京宣撫使に抜擢された。1261年には宰相格の中書平章政事の肩書きを授けられ、1264年に南宋との最前線である陝西・四川方面を管轄する行中書省が新設されたのにあわせてその平章政事に転出、中国西部の行政の最高責任者となり、長江の上流を抑えてクビライによる南宋の併合を後方から支援した。即位以前のクビライが大理国を征服(雲南・大理遠征)して以来、雲南地方の統治の整備と安定化が遅れていたが、1274年には手腕を買われてその統治を委ねられて雲南行省の平章政事を拝命した。サイイド・アジャッルは雲南に駐留していたモンゴル軍の協力を取り付けて雲南の開発に力を尽くし、雲南から領外のインドシナ半島にかけて居住する様々な民族には恩恵を施してよく従わせたので、5年後の1279年に死去したときは大いに惜しまれたという。死後、守仁佐運安遠済美功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・咸陽王の称号を追贈され
