画像引用元: upload.wikimedia.orgコンスタンス2世
コンスタンス2世“ポゴナトス”(Κώνστας Βʹ ὁ Πωγώνατος、630年11月7日 - 668年9月15日)は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝(在位:641年 - 668年)。コンスタンティノス3世の子で、元の名はフラビオス・ヘラクレイオス。のち「コンスタンティノス」。「コンスタンス」は「小さなコンスタンティノスの意味」で、“ポゴナトス”は「髭が生えている」を意味するあだ名。本名から「コンスタンティノス4世」と呼ぶ場合もある。641年、祖父・ヘラクレイオスの死により父・コンスタンティノス3世が即位したが、異母兄弟のヘラクロナス(ヘラクレイオスとその姪マルティナの子)との間に皇位をめぐっての争いの最中に父は死亡。ヘラクロナスを擁したマルティナが権力を掌握しようとしたが、中央軍長官であったウァレンティノスを中心とするコンスタンティノス3世派と、首都市民(サーカス党派)の力によって、フラビオス・ヘラクレイオスが11歳で共同皇帝となる。その際に祖父・父の名「ヘラクレイオス」を外して「コンスタンティノス」と名乗った。さらに元老院などの画策によってヘラクロナスらは廃位・追放され、641年末(あるいは642年はじめ)にコンスタンスが単独の皇帝となった。当初は幼少のため元老院やとりわけウァレンティノス(645年頃に失脚)が実権を握っていたようである。この時期、帝国艦隊が644年頃にシリア沿岸部の一部都市、そして645年にはエジプト(642年にイスラームが征服)のアレクサンドリアを奪回するが、いずれもその後の戦略や補給の失敗などにより維持には失敗した。エジプトからは646年に完全に撤退し、以降帝国がエジプトを奪回することはなかった。また647年には叔父(母の兄弟、ヘラクレイオスの従兄弟のニケタスの息子)でカルタゴ総督のグレゴリオスが反乱を起こして反対皇帝となった。しかし彼は同年にアフリカ・プロコンスラリスに侵入してきたイスラーム軍に敗れ、戦死した。なおこの時のイスラーム軍はほどなく撤退したため、カルタゴはその後も帝国領にとどまっている。コンスタンス2世は自ら軍を率いて繰り返して遠征を行っている。最初の遠征は651年頃にアルメニアを目的地として行われた。しかしこの遠征は成果を挙げず、直後にアルメニアはイスラームの支配下に入った。また当時シリア総督であったムアーウィヤが649年にイスラーム艦隊を創設し、キプロス島を
