ココ・テムル(Köke-Temür, ? - 1375年)は、元・北元の将軍。漢字表記は擴廓帖木児。ココ・テムルは元の朝廷から授けられたモンゴル名で、若い頃は「王保保」との中国名を名乗っていた。河南の人で、元末の騒乱に河南で軍閥を形成したウイグル部のチャガン・テムルの甥で、養子。1362年に叔父が山東で紅巾党との戦いで命を落とすと、その軍閥と官職を継ぎ、山東の征伐で叔父に劣らない軍才を示した。しかしその直後、叔父の生前から敵対関係にあった山西の大同を本拠地とする軍閥ボロト・テムル将軍との敵対が深まり、山西南部の太原に入って大同のボロト・......
ココ・テムル(Köke-Temür, ? - 1375年)は、元・北元の将軍。漢字表記は擴廓帖木児。ココ・テムルは元の朝廷から授けられたモンゴル名で、若い頃は「王保保」との中国名を名乗っていた。河南の人で、元末の騒乱に河南で軍閥を形成したウイグル部のチャガン・テムルの甥で、養子。1362年に叔父が山東で紅巾党との戦いで命を落とすと、その軍閥と官職を継ぎ、山東の......