画像引用元: upload.wikimedia.orgクレマンティーヌ・ドルレアン
クレマンティーヌ・ドルレアン(Clémentine d'Orléans, 1817年3月6日 - 1907年2月16日)は、ザクセン・コーブルク・ゴータ公|ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アウグスト・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ|アウグスト(ポルトガル王国|ポルトガルの王配フェルナンド2世 (ポルトガル王)|フェルナンド2世の弟)の妃。ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王フェルディナンド1世 (ブルガリア王)|フェルディナンド1世の母。フランス王国|フランス王ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップとその王妃マリー・アメリー・ド・ブルボン|マリー・アメリーの四女として、ヌイイ城(ヌイイ=シュル=セーヌ)で生まれた。姉にベルギー王レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世(アウグストの叔父)の妃ルイーズ=マリー・ドルレアン|ルイーズ=マリーがいる。未来の王と結婚したいと願った彼女は、1843年4月にサン=クルー城で1歳年下のアウグストと結婚した。なお、1840年にクレマンティーヌの兄ルイ・シャルル・ドルレアン (ヌムール公)|ヌムール公ルイ・シャルルとアウグストの妹ヴィクトワール・ド・サクス=コブール=コアリー|ヴィクトリアが結婚している。1848年、1848年革命|フランス2月革命で7月王政|オルレアン朝が倒れ、クレマンティーヌの家族はアウグストの従兄弟エルンスト2世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|エルンスト2世が治めるコーブルク、そしてウィーンへ亡命した。アウグストはその地でオーストリア=ハンガリー帝国の陸軍士官となった。クレマンティーヌは夫が王位に就けないことはわかっていたので、ルイ・フィリップの孫であり、太陽王ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世の子孫でもある息子フェルディナンド1世 (ブルガリア王)|フェルディナントに、いずこかの国の王位を望んだ。当時、アレクサンダル (ブルガリア公)|アレクサンダル公(バッテンベルク家出身)が退位して空位となっていた大ブルガリア公国|ブルガリア公国に、クレマンティーヌは目を付けた。彼女は積極的にフェルディナント選出のロビー活動を行った。目を見張るほどヨーロッパ政治外交に精通していたクレマンティーヌは、しばしばフェルディナントをヨーロッパ旅行に出して見聞を広めさせた。突出した資産家だった彼女は、新たな祖国ブルガリアに多額の寄付をしたことで、
