カルロ・エマヌエーレ2世の画像画像引用元: upload.wikimedia.org

カルロ・エマヌエーレ2世

推定知名度1.05%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

カルロ・エマヌエーレ2世・ディ・サヴォイア(Carlo Emanuele II di Savoia, 1634年6月20日 - 1675年6月12日)は、サヴォイア公国|サヴォイア公、サルッツォ侯国|サルッツォ侯、ピエモンテ公、アオスタ伯、モーリエンヌ伯、ニース伯、キプロス王国|キプロス王、エルサレム王国|エルサレム王(在位:1638年 - 1675年)。フランス語名シャルル・エマニュエル2世・ド・サヴォワ(Charles Emmanuel II de Savoie)。サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世とクリスティーヌ・ド・フランス|マリーア・クリスティーナ(フランス王アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世の娘)の子として、トリノで生まれた。公位を継承していた兄フランチェスコ・ジャチント・ディ・サヴォイア|フランチェスコ・ジャチントが6歳で夭逝したため、母が引き続き摂政を務める下、4歳で公位を継承した。カルロ・エマヌエーレは1655年の大虐殺で頂点に達したワルドー派の迫害で悪名が高くなった。これが非常に残忍な虐殺であったので、ジョン・ミルトンにソネット「ピエモンテの虐殺」(On the Late Massacre in Piedmont)を書かせることになった。オリバー・クロムウェルはワルドー派を助けるためにイングランド共和国|イングランド軍の派遣を提案した。ミルトンから任されたサミュエル・モーランドは後に「ピエモンテ渓谷の福音主義教会の歴史」(The History of the Evangelical Churches of the Valleys of Piemont, 1658年)を書いた。

過去の推移