画像引用元: upload.wikimedia.orgアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン
アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン(Anne Marie Louise d'Orléans, 1627年5月29日 - 1693年4月3日)は、フランス王国|フランスの王族。モンパンシエ公爵夫人。ラ・グランド・マドモワゼル(La Grande Madomiselle)の呼び名で知られる。オルレアン公ガストン (オルレアン公)|ガストンと最初の妃マリー・ド・ブルボン=モンパンシエの長女として、ルーヴル宮殿で生まれた。母は出産後に亡くなり、アンヌ・マリーは母からモンパンシエ公位とシャテルロー公爵|シャテルロー公位を受け継いだ。王弟とブルボン家の古い分家の相続人を両親に持ち、膨大な遺産を相続しているアンヌは、幼い頃から様々な縁談が持ち込まれた。彼女自身は11歳年下の従弟ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世と結婚することを望んだが叶わなかった。不運なのか自身のわがままのせいか、高貴な男性と結婚したいと不満がつのり、当時プリンス・オブ・ウェールズだったイングランド王国|イングランドイングランド君主一覧|王チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世の名も候補に含まれていたという。フロンドの乱が勃発すると、ジュール・マザラン枢機卿に失望したアンヌは国王側に就かなかった。彼女は軍の一隊を率いてフロンド側のコンデ公ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世に味方したのである。しかし彼女の政治的重要性はわずか6ヶ月しか持たず、フロンドの乱が王党派に早期鎮圧されると立場が不利になり、ルイ14世からの不信を招いたため、その後数年間私領に引きこもる生活をしなければならなかった(ルイの彼女への不信は一生続いた)。1657年になるまで宮廷に足を踏み入れることができず、再び彼女の結婚話が持ち出される頃には当時の結婚年齢を超えていた。アンヌは40歳近くになって、ローザン公アントナン・ノンパル・ド・コーモン|アントワーヌ・ド・コーモンと恋に落ちた。彼はフロンドの乱で、国王側のテュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ|テュレンヌ将軍配下の軍人貴族だった。ルイはこの2人の結婚の許しをなかなか出さず、莫大な資産家である王族のアンヌを外国の王族にでも縁づけたいと考え、アントワーヌを捕らえ投獄した。しかしアンヌは自身の所領であるショワジー城をメーヌ公ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン|ルイ・オーギュスト(ルイ14世とモンテスパン侯爵夫人フランソ
