画像引用元: upload.wikimedia.orgアマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
フリーデリケ・アマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(ドイツ語:Friederike Amalie von Hessen-Darmstadt, 1754年6月20日 - 1832年7月28日)は、バーデン (領邦)|バーデン大公子カール・ルートヴィヒ・フォン・バーデンの妃。後のヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ9世と妃ヘンリエッテ・カロリーネ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケンの次女として、父のプロイセン王国|プロイセン軍人としての任地プレンツラウで生まれた。1772年には母カロリーネや姉妹たちとともにサンクトペテルブルクを訪問した。ツェサレーヴィチ|ロシア皇太子パーヴェル(後のパーヴェル1世)の花嫁選びのためであり、パーヴェル自身がヘッセン=ダルムシュタット家の姫たちの中から、アマーリエの1歳年下の妹ヴィルヘルミーネ(ナターリア・アレクセーエヴナと改名)を選んだ。1774年、従兄にあたるカール・ルートヴィヒと結婚した。彼女はバーデン大公家での暮らしを最初は居心地悪く感じた。父方の叔母であり、義母となった大公妃カロリーネ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|カロリーネ・ルイーゼとの不仲が原因であった。1783年、義母カロリーネ・ルイーゼの死去によって、アマーリエはバーデン宮廷の最高位の女性となった。その時期は、息子カール(のちの大公カール (バーデン大公)|カール)がステファニー・ド・ボアルネと結婚するまで続いた。アマーリエは、ナポレオン・ボナパルトの義理の姪にあたり後に養女とされたステファニーとカールの結婚を阻止しようとした。アマーリエと、バーデン大公カール・フリードリヒ (バーデン大公)|カール・フリードリヒの後添となったルイーゼ(のちの大公レオポルト (バーデン大公)|レオポルトの母)はどちらも、ブルヒザル城へ移るようにという命令を承知できなかったのである。ナポレオンは、ブルヒザルにあるシュパイアー司教公の旧邸宅を所有していた。1803年にこの城はバーデン大公家の所有となり、アマーリエはここで暮らすようになった。アマーリエには12万ギルダーの年金が与えられた。ハイデルベルク近郊のロールバッハ城を義理の息子で母方の従弟でもあるバイエルン国王|バイエルン王マクシミリアン1世 (バイエルン王)|
