アシュラフ・カーンスーフ・ガウリーの画像画像引用元: upload.wikimedia.org

アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー

推定知名度1.54%15〜75歳男女
推定知名度--%20〜35歳男女

アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー(? - 1516年8月24日)は、ブルジー・マムルーク朝の第24代君主(在位:1501年 - 1516年8月24日)。1501年に即位したガウリーは斜陽の途にあったマムルーク朝を再建するため、弱体化して役立たずになっていたマムルークに代わってアビード(黒人奴隷)やズール(ヤクザ)などを徴兵してマムルーク軍団からの脱却を図った。また銃砲など新たな装備も行なったりして諸改革に着手した。しかしマムルーク朝はすでに外圧に苦しめられていた。インド洋にはポルトガルやサファーヴィー朝の進出が行なわれ、オスマン朝もキリキアを支配下に置いてマムルーク領のシリア北部を脅かし出した。しかし財政的にも苦しかったマムルーク朝では有効な手立てを取れずにいた。オスマン朝のセリム1世はマムルーク朝の衰退を見てシリア遠征を決意。ガウリーもこれを迎え撃つためシリアに進出した(マルジュ・ダービクの戦い)。兵力ではガウリーの方が優勢だったが、交戦中に味方の寝返りが起こって大敗。ガウリーは敗走中に戦死した。この戦いでマムルーク軍は7万の兵力を失うという致命的な大敗を喫し、マムルーク朝は翌年にセリム1世によって滅ぼされた。

過去の推移