赤松 則貞(あかまつ のりさだ、生年不明 - 大永5年(1525年)は、戦国時代の武将。官位は中務少輔。父は宇野政秀。孫に赤松村秀。那波城主。文明16年(1484年)、父政秀が剃髪し、以降の郡代職務を担うようになる。延徳4年(1492年)には在京していたことが確認できる。明応5年(1496年)、宗家当主政則死去に際して、浦上則宗・別所則治・小寺則職・薬師寺貴能と共に、赤松七条家からの養子である道祖松丸(後の赤松義村)を家督に据えることの承認を幕府に求めている。その後、東西取合合戦と呼ばれる赤松家を三分する混乱状態となり、則宗の求心力が低下すると則貞の赤松下......
赤松 則貞(あかまつ のりさだ、生年不明 - 大永5年(1525年)は、戦国時代の武将。官位は中務少輔。父は宇野政秀。孫に赤松村秀。那波城主。文明16年(1484年)、父政秀が剃髪し、以降の郡代職務を担うようになる。延徳4年(1492年)には在京していたことが確認できる。明応5年(1496年)、宗家当主政則死去に際して、浦上則宗・別所則治・小寺則職・薬師寺貴能と共に、赤松七条家か......