国分宗政(こくぶんむねまさ、生没年不明)は、日本の戦国時代に陸奥国宮城郡にいた武将である。能登守を称した。はじめ盛光といったとする伝えがあり、また、弾正少弼を称した国分宗綱も同一人物とされる。周辺の土豪を従えて宮城郡南部から西部を支配する勢力を築いた。が、大局的には伊達氏の威勢に服し、1536年に大崎氏への介入で伊達氏に従って兵を出し、1542年以降の天文の乱では伊達稙宗側についた。1572年に引退した。法名は覚海宗公大禅門。
国分宗政(こくぶんむねまさ、生没年不明)は、日本の戦国時代に陸奥国宮城郡にいた武将である。能登守を称した。はじめ盛光といったとする伝えがあり、また、弾正少弼を称した国分宗綱も同一人物とされる。周辺の土豪を従えて宮城郡南部から西部を支配する勢力を築いた。が、大局的には伊達氏の威勢に服し、1536年に大崎氏への介入で伊達氏に従って兵を出し、1542年以降の天文の乱では伊達稙宗側につい......